天童荒太。
自分はこの『悼む人』を読むまでは知らなかった。
直木賞を受賞するまでにも何度もいろいろな作品で評価されている、
新進気鋭の作家だ。
自分は直木賞や芥川賞の作品ではタイトルと雑誌の紹介で目に止まった
ものを手に取る。
失敗もある。『乳と卵』とか『蹴りたい背中』などは全く共感できなかった。
表現も凡庸としかいいようがない。
桜庭一樹の『昔の男』とか村上の『限りなく透明に近いブルー』はさすがと言えた。
結論から言うと『悼む人』は共感はできない。
ただ、さすがとはいえ、この小説ではないとこの小説を読むことはできない
という内容だった。
何より胸に刺さる迫力があった。
悼む人は坂築静人(さかつきしずと)
悼まれる人は死んでいった人。
悼む場所はその死んだ場所。
静人はこの定義に従って日本各地を回る。
新聞のお悔やみ欄を見て。
そして、悼む。
静人は死者に対し平等である。
そこには自殺も病死も事故も、被害者も加害者もない。
左ひざを付き右手を宙にかかげ、左手を地面に向け、空気を虚空を
胸に運ぶようにして目を閉じる。
静人は今日も明日も歩き続けている。
誰でもいつかは静人に会うことができる。
悼む人は特別な人だ。
だが、静人はどこにでもいる普通の青年である。
静人が悼む人になった事由、それは特別な事なんかではない。
誰でも自分の身近な人やペットが死んでしまう事はある。
静人に起こった体験もそれの延長線上であった。
ただ、静人は感受性が豊かだった。それだけだ。
悼むとは祈るとは違う。
静人は宗教家ではないし、人格者でもない。
死んだ人に想いを馳せる事も感情をゆだねる事もしない。
死んだ人の為ではない。
悼むとは記憶する事。
ここで死んだ人がいる。
それを記憶する事。
死んだ人がこの世から忘れられても静人は忘れないという事。
忘れないために静人は死んだ人が、周りから『何に感謝されたか』
『誰を愛したか』『誰に愛されてたか』を取得する。
そして、悼む。
忘れられないように、忘れないように。
この人が生きていたという事を忘れないように。
静人は自分の父や母、妹に愛情がある。
この小説の中でも女性と愛情が生まれる。
ただ、静人は歩み続ける。
まるで死者に呼ばれるように。
憑りつかれたように。
仕事も家族も生活も自分の幸せも置き去りにして。
静人はでたらめである。
そして、辛すぎる。
淋しすぎる。
ただただ自分のエゴのために歩き続ける。
ただ、死んだ人を忘れたくないという理由のために。
使命を感じているわけではない。
悼む人という自覚なんてさらさらない。
旅を止めようとも考えた。
死に呼ばれる事もある。
恐怖に畏怖する事もある。
だけど、歩みはとめない。
ただただ悼むために。
この世には理不尽な死が多い。
パレスチナの紛争、エチオピア等の餓死。テロ事件。
通り魔的殺人、道連れ的殺人、家族一同の無理心中。
事件が報道される度に可哀相だとか、むごいと思う。
だけど、あまりにもありふれすぎているから、すぐに忘れてしまう。
また自分の近親者や友達の死もある。
泣いて泣いて絶望する事もある。
でも、その感情は同じテンションで持つ事はない。
人間には防衛本能としての忘却機能がある。
ずっと忘れなければパンクしてしまう。
だから、時が来れば薄れてしまう。
だけど、静人は忘れない。
勿論、静人が自分と巡り会うことはできない。
けれど、静人は来てくれる。
それが、悼む人だ。
静人が会った人の中で『悼む人』となった人もいる。
悼む人は悼まれる人には希望の人となる。
今日は飯島愛さんのお別れの会であった。
飯島愛さんは最後にあんな孤独で寂しい死に方をした。
よく、自分の末期が自分のしてきた事だという言われ方をする。
じゃあ飯島さんの孤独死は飯島さんのやってきた報いという事か?
否。末期なんてどうでもいいし、告別会なんてどうでもいい。
人数が少なくても、泣いてくれる人が少なくてもいい。
俺は飯島さんがTVで見せてくれた事、本で見せてくれた事で、
大好きになった。
だから、忘れない。
結局、誰かの胸の中で生きられるならそれでいいと思う。
嫌われていても、相手にされない状態であっても、忘れない人が
いれば、それでいいと思う。
実際、飯島さんはみんなに愛されてたし、感謝されていた。
これが、飯島さんのやってきた途なんだと思う。
お別れ会の中で、大竹しのぶが『お別れ会と呼んでいるけど、
私たちは別れるつもりはないから』と言ってけど、この言葉に
ぐっときた。
大竹しのぶは悼む人で俺も悼む人で、飯島愛は悼まれる人だった。
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